会田海都選手のあしあと(2015秋田商業キャプテン)

2020年4月1日

期せずして一致した秋田への想い

2020年3月29日(日)。

こんにちは、REIYAです。

このブログを書き始めて約8カ月。

当初は考えもしなかった、私のささやかな夢が実現しました。

2015夏の甲子園、成田翔投手とともに、秋田商業をベスト8に導いた会田海都(あいたかいと)選手への独占インタビューです。

そもそものきっかけは、会田さんのTwitterでのつぶやき、そしてそのプロフィールを目にしたことでした。

 

『秋田の発展と幸せのために』。

 

主に秋田球児の活躍を紹介し、”野球熱”を高め、それをもって郷土・秋田の活性化につなげるべく当ブログを運営していた私です。

この会田さんの主張に、心が動かずにはいられませんでした。

そして、あの、2015夏の甲子園

秋田商業の活躍に、感動を頂いた記憶は今でも鮮明に残っています。

「いつか、当時のお話を聞いてみたい。」という個人的願望も当然、ありました。

メールで直接、この気持ちを会田さんにぶつけてみたところ、快く応じて頂きました。

(※今回の記事は、私の質問に会田さんが回答するという、インタビュー形式になっています。)

 

やるべくして始めた野球、なるべくしてなったキャプテン

(今回頂いた過去の写真、及び当日の写真は全て本人の許可を頂いています。)

 

Q1. まず始めに、野球を始めたきっかけを教えて頂けますか?

 

――幼稚園年中の際に、羽後町の公園で遊んでいる際、公園内の売店でカラーバット&カラーボールを買ってもらったのがきっかけです。

ちなみに、父親は剣道部、母親はバレー部でした。

姉には、「かいとは、自分で野球に出会って、自分で野球を始めたよね。」と言われたのを覚えています。

小学校3年生の時に野球部に入部しました。

(会田さんのその後の野球経歴)

     2012 雄勝中学キャプテン

➡ 2015 秋田商業キャプテン

➡ 2019 桐蔭横浜大副キャプテン

 

Q2. 経歴を踏まえまして、これまでキャプテンを務めることが多かったようですが、それについて何かきっかけ等があったのでしょうか?

 

――シンプルに、小・中学は自分が一番野球がうまかったからだと思います。

高校は自然となってた(それまでの積み重ねで)感じです。

中学校の時の恩師の影響で、「人がやらないようなことを積極的にやりなさい。」という言葉をずっと大事にしてきました。

 

(会田さんの話を伺ううち、“思慮深い”という印象を受けました。

これはあくまで個人的な印象ですが、なるべくしてキャプテンになった感が強いです。

会田さんの人柄に触れるうち、そういう思いが強くなりました。)

 

 

「負けたら、キャプテン辞めます。」

Q3. キャプテンを務めて、良かったこと、辛かったことなど教えていただけますか?

 

――2年生時の秋の全県大会の際に、準決勝で大曲工業にコールド負けしました。

その際に、太田監督にグラウンドで非常に怒られ、自分は監督にこう言いました。

「明日の3位決定戦で負けたら、キャプテン降ります。」と。

太田監督も「分かった。男に二言はないからな。」と。

実際、3位決定戦の西目戦でも結果はコールド負け。

ですが、自分自身は3打数3安打(2ベースヒット2本、3ベースヒット1本。)の結果を残しました。

 

5回、グラウンド整備の時に太田監督がチームメンバーに、「何故、こいつがここまでの結果を残してるか分かるか。」と。

そこで初めて、選手たちに(会田キャプテンの覚悟を)伝えました。

試合後、ロッカーで涙を流してたら、成田が「なんでキャプテン辞めるなんていったんだ。お前しか無理だから。」って。

その後、学校に戻り、成田が選手全員を連れて監督のもとにお願いにいったんです。

 

成田「会田がキャプテンじゃないとダメです。」

監督「いや、こいつから言ったんだよ。辞めますって。」

しばらくそういう押し問答が続いたあと、

監督「ま、お前らがそこまで言うなら、、」

、、ということで引き続き、キャプテンとしてチームを率いることになりました。

 

1年生時から、ライバル心を燃やした成田翔投手

Q4. 会田さんから見て、成田翔投手はどのような存在でしたか?

 

――常に彼とはともに、1軍に居続けて、「二人で自分たちの学年を引っ張っていこう」という気持ちがありました。

 

成田投手も、皆をリードするイメージがあったと?

 

――そうですね。特にピッチャー陣を強く引っ張ってくれましたね。

 

彼に対してライバル心みたいなのはありましたか?

 

――ありましたね。彼は1年生時に甲子園に出てるし、自分はその時、スタンドで応援でした。だからすごく悔しかったですね。

 

やはりそういう気持ちが、その後の技術の向上につながったのでしょうか?

 

――いや、野球は不思議なもので、練習を頑張ってる奴が結果出せるわけでもないし、僕、3年生時の夏の県予選は打率1割1分8厘でした。

夜が明けるまで素振りをしていたこともありました。

 

結果が出ない時は、皆そういうことをするとは思いますが、会田さん、努力家ですね。

 

――した方だとは思います。

 

「こうすれば勝てる」というのは分かっていた

Q5. やはり一番印象深いのは、2015夏の甲子園ですが、あの時の各試合について、それぞれ最も印象深かったことを教えて頂けますか?

 

【2回戦・龍谷(佐賀)戦】

――その年の春の九州王者だったので、ビデオで研究してました。

自分たちのチームと似ていて、粘り強いチームだなと思ってましたので、そこで負けないようにと、チームメンバーたちと話していました。

実をいうと、龍谷戦当日は、自分、誕生日だったので、ホテル側にケーキまで用意されてました。

1塁コーチャーの奴に、タイムリー打ったらプレゼントあげるよって言われてて、実際、8回裏にタイムリーを打ったんですよ。そして1塁上でその1塁コーチャーに、「何を買ってくれるの?」みたいに話してたら牽制球でアウトになりました(笑)。

 

それが試合の勝敗に結び付かなくて良かったですね(笑)。

 

――そうですね。なんだかんだいって、自分、結構甲子園では走塁ミスなんかもやらかしちゃってます。(笑)

 

【3回戦・健大高崎(群馬)戦】

――毎年、夏の大会直前に東北遠征があるんですけど、聖光学院(福島)のグラウンドで自分たちと、聖光学院と健大高崎が集まって練習試合をしてたので、「こうすれば勝てる、これをしなければ負ける。」というのは知ってました。

 

へえぇ、そういうのが恒例であったんですね、知りませんでした。(当然ですが。)

 

――確か、自分がキャプテンを務めるくらいの年前後から、その3校でやるようになりました。

あと確か、健大高崎って、監督さんじゃなくて、自分たちの判断で走る(盗塁する)んですけど、一番最初の盗塁を阻止すれば、向こうはその後、(盗塁)しにくくなると思ったので、、。

そのことは皆と話し合ってました。

最初の盗塁は結果的にはセーフでしたが、タイミング的にはアウトでした。その後もキャッチャーの工藤が2回目の盗塁も刺したので。

 

では当初の作戦は成功したわけですね?

 

――そうですね。それができれば勝てる、できなければ負けると思ってました。

あと、4番、5番には長打を打たせないというのがありました。どうせ外野が前進守備をしても、彼らの走塁では2塁ランナーなんてホームで刺せないので。

 

なるほど。長打警戒という意味ではそれも成功したわけですね。

 

――そうですね。

 

【準々決勝・仙台育英(宮城)戦】

 

仙台育英とは結構、練習試合もされていたとか聞きましたが?

 

――毎年、東北遠征で必ず向こうに行きます。

 

これも互いによく相手のことを知り尽くしていたんですね。であれば、どうすれば勝てる、みたいなのはあったんでしょうか?

 

――正直、、健大高崎戦の守備で彼らの走塁に神経すり減らしてたんで、、その翌日でしたし、成田も200球近く投げてましたから、俺らがこれだけ疲労してるんだったら、あいつはどんだけ疲れてるんだろうと。でも気持ちでは負けないようにしようと。練習試合では一度も勝ったことがないので、、。

前日の夜、部屋でマネージャーと話したんですけど、もし負けたら甲子園の砂は持ち帰りたくないよなって。後輩たちが見ている前では、、こいつら来年もあるし、こいつらの前では砂を拾うのやめようなって、、。なので、砂は持ちかえってません。

 

誰一人、甲子園の砂を持ってかえらなかったと?

 

――そうですね。それで実家に帰ったら母親に「なんで持ってこなかったのっ!!」て怒られて、母親は一生懸命に自分のスパイクに付いた砂をかき集めてました。(笑)

 

そうなんですね(笑)。

 

打った瞬間にボールがゆっくり見えた

あの試合、印象深いのはやはり、9回裏の攻撃の場面でした。

会田さん、バッターボックスではすごい笑顔でしたね。

 

――そうですね。前の打席で確かショートゴロだったんですけど、、まさか9回に自分に打席が回ってくるとは思わなくて。野球の神様っているんだなと。すごい嬉しかったです。

 

それで自然とああいう笑顔になったと。

 

――はい。

 

残念ながら最後はピッチャーライナーに倒れましたが。あの時は地にうずくまる場面が、、。

 

――あの時はバットにボールが当たった瞬間から、打ったボールがゆっくりと見えました。そのボールの先にグラブがあって、、。ボールがグラブに収まる前から「ああ、終わった。」と。

そしたら歓声が聞こえてきて。

でも試合後に、父兄の方々に言われて印象深かったのが、「カイトにはじまり、カイトに終わったね。」という言葉です。

あと、なんとか東北に優勝旗を持ち帰ってほしいと思い、仙台育英のキャプテンにそれを伝えました。

 

 

Q6. 秋田商業卒業後、チームメイトとは連絡を取りあっていたのですか?

 

――そうですね、皆と連絡取り合ってましたが、特に成田や工藤とは比較的多く連絡し合ってました。

この前、成田に当時のチームメンバー全員でサプライズ動画を贈りました。彼は結果を出さなければという、不安のなかにいるので、励ましの応援メッセージみたいな。

 

それは本人も喜んだでしょうね。

 

――はい。LINEでありがとうって、、。さすがキャプテンやなって、、。

 

 

「もう野球はできない」と言われたが、、

Q7.  大学時代は副キャプテンを務めておられたようですが、野球生活はどうでしたか? 高校時代と大きく異なることはあったでしょうか?

 

――大学1年生時に、事故で目にボールが当たってしまって、医者には「もう野球はできない」と言われ、手術も5回したんですけど、でも野球を続けたくて、、

 

 

そういう姿を見て監督さんが、自分を副キャプテンにおいてくれて。とにかく、大学の4年間はいろんなことに気づかせてもらえました。すごい周りの人たちに支えられて。野球はもうできないって言われたときに、「自分から野球をとったら何が残るんだろう?」って。そういう意味でも、いろんなことに気づかされました。

 

秋田県を世界一幸せな場所にしたい

Q8.  これからの展望、夢などについて聞かせて頂けますか?

 

――僕は、秋田県を世界一幸せな場所にしたいんですよ。

なので、「地方創成」に力を入れたいと思っています。秋田から出ていった若者たちが安心して戻ってこられるような環境づくりと、秋田の人たちが幸せに暮らしていけるような環境を作っていきたいと思っています。

 

すごい、しっかりした考えをお持ちですね。応援します。

長々と質問に答えて頂き、ありがとうございました。

 

ーーー(編集後記)ーーー

会田さんは、4月から秋田で就職しながら、自分にできることを色々と試行錯誤していくと強く語っておられました。

メールでやりとりをしている間もそうでしたが、会った際の第一印象も、非常に礼儀正しく言葉遣いも丁寧で、親しみやすいお人柄でした。

秋田の地方創成に向けて、是非とも頑張って頂きたいと思います。

及ばずながら、私も当ブログなどを通じ、秋田の活性化について試行錯誤していきます。

これからも会田さんとは手を組み、できることを模索していきたいと思います。

本当に貴重なお話、ありがとうございました。